
Fleetwood Mac『Rumours』(1977年)— 崩壊が生んだ、世界一美しい傷跡 — AI George のアルバム探検隊 Vol.3
「録音中、スタジオで僕たちは互いに泣いていた。でも、そのアルバムが出来上がった時、世界中の人たちも泣いたんだ。」
— Mick Fleetwood
1977年2月4日。Fleetwood Mac は『Rumours』(噂)をリリースした。全世界で4,000万枚超を売り上げ、Grammy の Album of the Year を受賞し、発売から半世紀近くが経った今もなお、世界中でストリーミングされ続けているこのアルバムは、単なる「名盤」という言葉では収まらない。5人のメンバー全員が、同時に、恋愛的・夫婦的崩壊の渦中にあったという、ポップミュージック史上最も劇的な状況から生まれた奇跡だ。
しかし、Fleetwood Mac の物語は1977年から始まったのではない。それは1967年のロンドン、ミック・フリートウッドというドラマーとジョン・マクヴィーというベーシストが、ジョン・メイオールのブルースブレイカーズを離れて新しいバンドを結成した日から始まっている。そして最初の輝きは、ピーター・グリーンという天才ギタリストの指先に宿っていた。
1. ピーターの魔法 ― バンドの源流(1967-1970)
ピーター・グリーンのギターには、他のギタリストが持っていない何かがあった。エリック・クラプトンはかつてこう語ったとされる。「彼だけは、私に劣等感を覚えさせることができる唯一のギタリストだ」と。
サンタナの最大のヒット曲「Black Magic Woman」(Abraxas収録)はもともとピーター・グリーンが書いた曲だ。「Albatross」はUKチャートで1位を獲得した、言葉のないインストゥルメンタルだった——1968年のUKで、ギターだけが語る曲が1位になるということが何を意味するかを想像してほしい。「Oh Well」はハードロックの先駆けとも言える骨太なリフを持ち、「The Green Manalishi (With the Two Prong Crown)」は、精神が崩壊し始めたグリーンの内側がそのまま滲み出た、暗く官能的な傑作だ。
グリーンのギタープレイを一言で表すなら「感覚的な官能性」だろう。テクニックで圧倒するのではなく、音符と音符の「間」、わずかなビブラートのかけ方、フレーズの選択によって、聴き手の深いところを刺激する。それは体で感じるブルースであり、ギタリストが「魂を演奏している」という表現がこれほど自然に当てはまる奏者は多くない。同じコードを同じ速さで弾いても、グリーンが弾くと「それは彼の音」になった。
ジョン・マクヴィーは後年こう語っている。「ピーターと演奏していると、自分がジョン・マクヴィーであることを忘れた。ただ音楽の中にいた」と。バンドはピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック(Peter Green's Fleetwood Mac)という名前でデビューし、ブルースバンドとしてUKのチャートを席巻した。当初のラインナップには、ピーター・グリーンと並ぶスライドギターの名手ジェレミー・スペンサー、そして後に脱退するダニー・カーワンも名を連ねていた。ジェレミー・スペンサーはエルモア・ジェイムズ直系のボトルネック奏法を武器に、ブルースバンド時代のFleetwood Mac のもう一つの顔を担っていた。バンドはその後もラインナップを変えながら、初期の骨太なブルースサウンドを鳴らし続けていく。
しかし1969年から1970年にかけて、グリーンは変わっていった。LSDの体験が引き金になったとも言われる精神的な変調は次第に深刻化し、彼の音楽への関わり方も変容した。富と名声を拒否し始め、1970年5月にバンドを去った。天才は突然消えた。
Fleetwood Mac はどうやって生き延びたのか——その答えは「変容」だった。
2. 変容の季節 ― ボブ・ウェルチとクリスティンの時代(1971-1974)
ピーター・グリーンが去った後、さらにダニー・カーワンも脱退し、バンドは数名の交代を経て、ロサンゼルスから来たボブ・ウェルチを迎えた。ウェルチはブルースではなく、柔らかくメランコリックなアメリカンポップの感性を持ち込んだ。「Hypnotized」「Sentimental Lady」——これらの曲はグリーン時代とは全く異なる、繊細で神秘的な質感を持っていた。Fleetwood Mac はロンドン・ブルースバンドから、LA的な「夢の音楽」を作るバンドへと変貌しつつあった。
同じ頃、バンドにとって決定的な変化が起きた。キーボーディストのクリスティン・パーフェクト(旧姓)が、ジョン・マクヴィーと結婚し、クリスティン・マクヴィーとして正式加入したのだ。彼女のピアノと歌声は、このバンドに「温もり」を加えた。クリスティンが書く曲は、どこか生活の温度を帯びていた。ブルースでもなく、サイケでもなく、「人間の日常」だった。
ウェルチ時代のFleetwood Mac(1971年〜1974年)は、商業的に大きく成功したとは言えない。しかしこの時代があったからこそ、バンドはロサンゼルスに根を下ろし、よりポップな方向性を身につけ、次の奇跡への土台を作ることができた。ブルースバンドとして出発したFleetwood Mac が、なぜ数年後にはアメリカ的な洗練されたポップサウンドを鳴らすようになったのか——その答えの多くは、ボブ・ウェルチという、あまり語られることのないこの時代に隠れている。1974年末、ウェルチはバンドを去った。そしてミック・フリートウッドは新しいギタリストを探し始めた。
3. ロサンゼルスからの奇跡 ― バッキンガムとニックスの登場(1975)
ミック・フリートウッドがサンフランシスコのあるレコードショップで一枚のアルバムを見つけた時、彼はプロデューサーに「このギタリストを探してくれ」と頼んだ。そのアルバムのタイトルは『Buckingham Nicks』。ギタリストの名はリンジー・バッキンガムだった。
しかしバッキンガムには、恋人がいた。スティーヴィー・ニックスだ。バッキンガムは「彼女も一緒でなければ来られない」と告げた。フリートウッドは間髪を入れずに答えた。「もちろん、ふたりとも来てほしい」と。デュオBuckingham Nicksとしての1973年作は決して大きなセールスを記録した作品ではなかったが、この一枚がなければFleetwood Mac の運命そのものが変わっていた。
1975年の新生Fleetwood Mac は爆発的だった。「Rhiannon」「Say You Love Me」「Over My Head」——ニックスのハスキーで魔性のある声と、バッキンガムのエッジの効いたギターが加わることで、Fleetwood Mac は完全に別のバンドになった。セルフタイトルアルバム『Fleetwood Mac』(1975年)は全米チャートで1位を獲得し、700万枚を超えるセールスを記録した。
この時点でFleetwood Mac というバンド名の中には、実に3つの時代が積み重なっていたことになる。ピーター・グリーンが刻み込んだブルースの官能性、ボブ・ウェルチとクリスティン・マクヴィーが持ち込んだLA的な柔らかさ、そしてバッキンガムとニックスが加えたアメリカンロックのエッジ。同じバンド名でありながら、まったく異なる3つの音楽性が地層のように折り重なっていたからこそ、次に作られるアルバムには、他のどんなバンドにも真似できない厚みが宿ることになる。
しかしその成功の裏で、バンドの内部では静かに「崩壊」が始まっていた。それは翌年、スタジオで一気に噴出することになる。
4. 8つのスタジオ、2人のプロデューサー ― 崩壊の中で始まった録音(1976-1977)
1976年、Fleetwood Mac がレコーディングに入った時、5人全員がそれぞれの「崩壊」の渦中にあった。
ジョン・マクヴィーとクリスティン・マクヴィーは、半年に及ぶ連続ツアーを終えたのち、8年間の結婚生活に終止符を打つべく離婚協議中だった。バンドの共同創設者でもある元夫婦が、同じステージに立ち、同じスタジオでベースとキーボードを弾き続けた。リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは、オンとオフを繰り返しながら10年近く続いたロマンティックな関係の終わりを迎えようとしていた。そしてミック・フリートウッドは、自分の妻ジェニー・ボイドと、フリートウッドのベストマンを務めた親友との間に不倫関係があったことを知り、深く傷ついていた。
5人全員が、互いの痛みをすべて知っていた。スタジオに入れば、誰が誰に向けた曲かが即座にわかった。バッキンガムが「Go Your Own Way」を書いた時、ニックスはそれが自分に向けられた曲だと知っていた。しかし彼女はそのバックグラウンドボーカルを録音しなければならなかった。ニックスが「Dreams」を書いた時、それはバッキンガムへの静かな返答だった。
録音は、単一のスタジオで完結したのではない。カリフォルニア州サウサリートとロサンゼルスの2ヶ所にある Record Plant を中心に、Criteria Studios(マイアミ)、Wally Heider's Studio 3(ハリウッド)、Producer's Workshop、Sound City Studios、Davlen(ノース・ハリウッド)、そしてカリフォルニア大学バークレー校の Zellerbach Auditorium(オーディトリアム)まで、実に8つの拠点を転々としながら数ヶ月にわたって録音が行われた。バンドが西海岸を横断しながら、ツアーとレコーディングを同時に進めていたことがうかがえる制作体制だ。
プロデュース陣にはFleetwood Mac 自身に加え、Ken Caillat と Richard Dashut がプロデューサー兼エンジニアとしてクレジットされている。この2人は録音とミックスの現場に常に張り付き、5人の感情の起伏をなだめながら、同時に音そのものの精度にも徹底的にこだわった。彼らの仕事は、単に楽器の音を録ることだけではなかった。喧嘩をして出て行ったメンバーをなだめてスタジオに呼び戻すことも、離婚協議書にサインしたばかりのメンバーにマイクの前に立ってもらうことも、すべてこの2人の役目だった。プロデューサーというよりも、感情の交通整理役に近い仕事だったと言えるかもしれない。1978年のグラミー Album of the Year は、バンドと Caillat、Dashut の連名で受賞している。
コカイン、シャンパン、そして深夜の涙——後の証言によれば、スタジオはしばしば感情的な爆発の場となった。あるセッションでは、バッキンガムとニックスが激しい口論の末にスタジオを飛び出し、翌日何事もなかったように戻ってきた。クリスティンは離婚協議書にサインしながら「Songbird」を書いた。ミキシング卓の下には、当時のスタジオ文化を象徴するように、黒いベルベットの小袋に入ったコカインが常備されていたとも伝えられている。あるとき、エンジニアの Ken Caillat がいたずら心を起こし、中身をこっそりタルカムパウダーにすり替えた。次にその袋を求めた誰かが逆さにすると、白い粉が床にぶちまけられ、クリスティンとフリートウッドが本気で激怒しかけた。その瞬間、隣にいた Richard Dashut がこらえきれずに笑い出し、いたずらだと発覚したという。緊張と冗談が紙一重で同居していたのが、このセッションの空気だった。
それでも彼らは録音し続けた。なぜなら、曲そのものが素晴らしかったからだ。プロデューサーの Ken Caillat は後に語っている。「あの5人は、痛みを持ちながら、それでも自分たちが作っているものの価値をわかっていた」と。
普通のバンドであれば、これほどの人間関係の崩壊が重なれば、そのまま解散していてもおかしくなかった。しかしFleetwood Mac の5人は、感情をぶつけ合う場所と、それを曲に昇華する場所を、同じスタジオの中に同居させることを選んだ。8つの拠点を転々としながらの長丁場の録音は、単なる制作上の都合であると同時に、互いに息が詰まりそうになる関係から、物理的に距離を置くための逃げ場でもあったのかもしれない。
5. 隣の部屋の亡霊 ― 「Dreams」、10分間で書かれた曲
1976年初頭、Record Plant Sausalito でのセッションの合間、スティーヴィー・ニックスは Fender Rhodes を抱えて、隣にある空き部屋にひとり移動した。そこはかつてスライ&ザ・ファミリー・ストーンが使っていたとされる部屋だった。黒と赤を基調にした内装で、部屋の中央には床が窪んだピットがあり、そこにピアノが据えられ、黒いベルベットのベッドとヴィクトリア調のカーテンが異様な雰囲気を漂わせていた。
「ベッドに座って、キーボードを前に、ドラムパターンを見つけてカセットレコーダーを回した。10分で『Dreams』を書いた」とニックス本人が振り返っている。この「Sly Stoneの部屋」という帰属自体はニックス自身の証言に基づく逸話であり、Record Plant の他のスタッフの記録では細部が異なる場合もあるようだが、いずれにせよ、たった一人でギターもベースもない状態から、あの静かで確信に満ちたメロディが生まれたことは記録に残っている。
バンドの他のメンバーは、最初にこのデモを聴かされたとき、あまり乗り気ではなかったという。単調なコード進行の繰り返しに過ぎないように聴こえたのかもしれない。しかしニックスは自分の直感を曲げなかった。彼女の主張を受けて、バンドは翌日にはこの曲のデモ録音に着手した。基礎トラックは Sausalito で録られ、ギターとベースのオーバーダブは後にロサンゼルスで加えられている。結果として「Dreams」は『Rumours』からの唯一の全米1位シングルとなった。10分間、隣の部屋で一人きりだった時間が、このアルバムの顔になった。
この曲の面白さは、演奏がとても静かなことにある。「Go Your Own Way」のように感情をぶつける激しさは、ここには一切ない。むしろ淡々としたグルーヴの上に、ニックスのかすれた声だけがぽつりぽつりと言葉を置いていく。怒りをぶつける代わりに、ただ静かに見つめる——そのやり方のほうが、時としてどんな絶叫よりも深く突き刺さることを、この曲は証明している。
6. 深夜のメロディ、たった一人のコンサートホール ― 「Songbird」
クリスティン・マクヴィーのもとに「Songbird」のメロディが訪れたのは、深夜のことだった。突然目が覚め、頭の中でメロディが鳴っているのに気づいた彼女は、ベッドを抜け出して部屋にあった小さなピアノに向かい、そのフレーズを確かめた。テープレコーダーが手元になかったため、忘れてしまわないよう、彼女は朝まで一睡もせずに起き続けた。約30分ほどで曲は書き上がったとされる。「とてもスピリチュアルな体験だった」とクリスティン本人は振り返っている。
録音は、当時使っていたどのスタジオでもなく、カリフォルニア大学バークレー校のコンサートホール、Zellerbach Auditorium で行われた。プロデューサーの Ken Caillat は、この曲のためだけに特別な演出を用意した。ピアノのそばにバラの花束を置き、3色のスポットライトを当て、客席を真っ暗にすることで、クリスティンの視界には花とピアノとスポットライトしか入らないようにした。ホール全体には15本ものマイクが配置され、コンサートホールならではの自然な残響をそのまま録り込む、一発録りに近い方法が取られた。この繊細な録音は簡単ではなく、収録は翌朝までかかったという。舞台袖ではリンジー・バッキンガムがアコースティックギターを弾き、姿を見せないままテンポを支え続けた。破局を迎えつつあった相手が、姿を隠したまま自分を支えていた——その事実を知って聴くと、この曲の静けさはいっそう複雑な陰影を帯びる。
「And I love you, I love you, I love you, like never before」——その言葉が誰に向けられていたのか、クリスティン本人はずっと明確にしなかった。だからこそ、誰の耳にも「自分への歌」として届く。アルバムを聴いた5人全員が涙を流したと言われるのも、この曲のたった一人の演奏と、その録音にかけられた執念があってこそだろう。
7. カミソリで繋いだ鎖 ― 「The Chain」、5人だけの共作
『Rumours』の中で唯一、5人全員が共同作曲者としてクレジットされている曲、それが「The Chain」だ。その成立過程は、他のどの曲とも違っていた。もともと存在していたのは、クリスティン・マクヴィーが書いた「Keep Me There」という未発表のデモと、スティーヴィー・ニックスが持ち込んだ別の音源の断片だった。プロデューサー陣は、この2つの異なる素材を、アナログテープをカミソリの刃で物理的に切り貼りするという編集技術を使って、まるで映画のスコアを組み立てるように1曲へと縫い合わせていった。曲の中間部で炸裂するベースラインは、ジョン・マクヴィーが即興的に弾いたフレーズがそのまま採用されたものだ。
「And if you don't love me now, you will never love me again」——穏やかな出だしから一転、後半のベースラインが爆発した瞬間、何かが変わる。5人の「繋がり」と「断絶」が、そのまま音になっている。
この曲は、リリースから1年後の1978年、イギリスの BBC が F1(フォーミュラ1)グランプリ中継のテーマ曲として採用したことで、レース中継とともにさらに幅広いリスナーの耳に届くようになった。BBC での使用は1978年から1996年まで続き、1997年に放映権が ITV へ移った際には一時使用が途絶えたが、2009年に BBC が中継を取り戻すと「The Chain」は再びテーマ曲の座に返り咲き、2015年まで使われ続けた。ロック史上でも屈指の有名なベースラインが、モータースポーツ中継の一部として何世代ものリスナーの記憶に刻まれることになったのは、この曲の生い立ちを知ると、なんとも不思議な巡り合わせに思えてくる。
8. 11曲の解剖 ― Rumoursのすべて
『Rumours』は収録された全曲が、何らかの形で5人の「現実」を反映している。それを知って聴くと、このアルバムの密度は倍になる。作曲クレジットを見ると、バッキンガム、ニックス、クリスティン・マクヴィーの3人がほぼ均等に曲を持ち寄っていることがわかる。1つのバンドの中に、3人の異なる作家性が同居し、それぞれが自分の痛みを自分の言葉で歌う——この構造自体が、『Rumours』を単なる「失恋ソング集」ではなく、3つの視点が交錯する群像劇に変えている。
「Second Hand News」(バッキンガム作)はアルバムを軽快に開幕させる。アップビートなカントリーロック風のサウンドに乗せて、別れの言葉が語られる。「俺とあいつの関係はセカンドハンド・ニュース(古い二次情報)だ」——軽さに偽装した深い傷。このアルバムの構造そのものだ。
「Dreams」(ニックス作)はアルバムで唯一の全米1位シングルとなった曲だ。バッキンガムの「Go Your Own Way」への静かな返答として書かれた。稲妻が鳴り、雨が降る——でも、雷が鳴っても、あなたはまだ夢の中にいる。ニックスの声は怒っていない。ただ見ている。その「見ている感」の静けさが、バッキンガムの直接的な感情表現とは対照的で、二曲の並びが鮮やかなコントラストを生む。2020年にTikTokのバイラル動画がきっかけとなり、この曲は全米チャートに再浮上した。
「Never Going Back Again」(バッキンガム作)はギター1本とバッキンガムの声だけ。このアルバムの中で最も親密な曲のひとつだ。アコースティックギターのフィンガーピッキングは複雑だが、聴こえ方は水が流れるように自然だ。「もう後戻りしない」——どこへ向かうかではなく、何からは戻らないかだけがわかっている、その潔さ。
「Don't Stop」(クリスティン・マクヴィー作)は、離婚相手のジョン・マクヴィーに向けた、不思議にも温かく楽観的なメッセージだ。「昨日のことは考えなくていい、明日を見て」——このアップテンポな明るさが、バンドの状況を知って聴くと胸に響く。後年、ビル・クリントンは1992年の大統領選キャンペーンでこの曲を使い、Fleetwood Mac が初めてホワイトハウスに招かれた。
「Go Your Own Way」(バッキンガム作)はバッキンガムが最も個人的な感情をぶつけた曲だ。スティーヴィー・ニックスは「あばずれ女のように転がり回ることだってできる」という歌詞に深く傷ついたと後年語っている。「あれは私のことじゃなかった。私はそんなことをしていなかった」と。それでも彼女はバックコーラスを録音した。このアルバムの核心はここにある——感情的に不可能に近い状況でも、5人は音楽のために留まり続けた。
「Songbird」(クリスティン・マクヴィー作)は前章で触れた通り、Zellerbach Auditorium でほぼ一人で録音された曲だ。ピアノだけの伴奏に乗るその歌声は、アルバムの中でもとりわけ静かな祈りのように響く。
「The Chain」は5人共同作曲の唯一の曲。前半の穏やかな展開から、後半の怒りのような電気的爆発へ——5人の「繋がり」と「断絶」が音になっている、その詳しい成立過程はすでに述べた通りだ。
「You Make Loving Fun」(クリスティン・マクヴィー作)は軽やかなポップ感に包まれているが、実はクリスティンが当時付き合っていたバンドの照明ディレクター、Curry Grant に捧げた曲だった。ジョンとの衝突を避けるため、クリスティンは「この曲は飼い犬について歌ったもの」と偽っていたと伝えられる。愛の喜びを歌っているのに、その愛の相手は離婚交渉中の夫ではない——このアルバムの皮肉はどこまでも深い。
「I Don't Want to Know」は、もとはバッキンガムとニックスのデュオ時代に書かれていた曲だ。ハンドクラップとアコースティックギターが軽快に絡み合うカントリー・フォーク調のサウンドで、アルバムの中では珍しく明るく開放的な空気をまとっている。しかし歌詞をよく聴くと、そこには「知りたくない」という、痛みから目を逸らそうとする本音が滲んでいる。
「Oh Daddy」(クリスティン・マクヴィー作)はしっとりとしたバラードで、実際にはミック・フリートウッドに向けて書かれたと言われている。バンドの中で最年長格であり、いつも周囲を見守る立場にあったフリートウッドへの、ある種の親愛の情がこもった一曲だ。派手さはないが、アルバム後半にひっそりと差し込まれるこの曲があることで、11曲全体の呼吸に緩急が生まれている。それぞれの恋愛が絡み合い、もつれていく4人の周りで、静かにバンドを支え続けていたフリートウッドの存在に、クリスティンだけがきちんと目を向けていた、そういう曲だ。
「Gold Dust Woman」(ニックス作)はスティーヴィー・ニックスが自分自身のコカイン依存と、それを可能にした業界全体への複雑な感情を象徴的に描いた曲だ。「金の砂の女」——それは同時に、彼女が生み出す莫大な財を貪る者たちへの警告でもある。アルバムの最後を飾るこの曲は、「崩壊の美しさ」という『Rumours』全体のテーマを凝縮している。
これら11曲を通して聴き終えた時、不思議な感覚が残る。これほど多くの「終わり」が詰まったアルバムなのに、聴き終えると「生きることへの意志」のようなものを感じる。傷ついた5人が、それでも最後まで音楽を作り続けたという事実が、そのまま聴き手に伝わってくるのかもしれない。
9. 外された1曲 ― 「Silver Springs」、20年越しの逆襲
スティーヴィー・ニックスが『Rumours』のために書いた曲の中には、最終的にアルバムから外された1曲がある。「Silver Springs」だ。ミック・フリートウッドは、この曲を「単に長すぎる」と判断した。プロデューサーの Ken Caillat も「アルバムに収めるには長すぎた」と後に証言している。結果として「Silver Springs」は本編から外され、「Go Your Own Way」のシングルB面としてひっそりと世に出ることになった。
しかしこの曲は、そこで終わらなかった。1997年、Fleetwood Mac が再結成して行ったツアーのライブアルバム『The Dance』の中で、「Silver Springs」はライブ音源としてシングル化され、20年の時を経て再び脚光を浴びた。翌1998年のグラミー賞では Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals にノミネートされている。ライブ映像の中で、ニックスがバッキンガムをまっすぐに見つめながら歌うそのパフォーマンスは、燃えるような緊張感を湛えた名場面として語り草になっている。一度は「アルバムに入りきらない」という理由だけで切り捨てられた曲が、20年後には2人の関係そのものを物語る象徴的な演奏として蘇った——これもまた、『Rumours』という作品を取り巻く数奇な運命のひとつだ。
もし「Silver Springs」が予定通り本編に収録されていたら、『Rumours』はまた違う顔のアルバムになっていたかもしれない。しかし外されたことで、この曲は「アルバムの一部」ではなく「20年越しの独立した物語」を持つことになった。1枚のアルバムから漏れた曲が、時間を超えて別の意味を獲得していく——Fleetwood Mac というバンドの物語そのものが、こうした偶然の積み重ねでできている。
10. あのジャケット ― 脳に焼きつく視覚
ミック・フリートウッドとスティーヴィー・ニックスが踊っている——それだけの写真が、なぜこれほど強烈な印象を残すのか。
写真家 Herbert Worthington によって撮影されたこのジャケットには、説明のつかない「力」がある。スティーヴィー・ニックスは当時のステージ衣装だった黒いシフォンのドレスとトップハットをまとって被写体に立った。この衣装スタイルはもともと「Rhiannon」のステージ用に選ばれた機能的な衣装だったが、このジャケットによって永遠に「ニックスの象徴」となった。ミック・フリートウッドは長身に、トイレのチェーン飾りを身につけ、片手に水晶球を持って写っている。彼の背に下がった「木製の玉」(後に「ミックの玉」として語り草になる)とあわせて、この2人の組み合わせはどこか儀式めいた、時代を超えた民俗的な空気を纏っていた。
茶色とゴールドの色調の中で、二人が踊る姿はロックアルバムのジャケットでありながら、美術館に飾られてもおかしくない、ひとつの「作品」だ。
「後年、あれをまねて違うデザインにした海賊(?)アルバムもずいぶん見かけた」——ナミオさんの記憶は正しい。ロック史上、これほど頻繁に「引用」「模倣」「オマージュ」されたジャケットは数少ない。それは単に「かっこいい」からではなく、「一度見たら頭から離れない」強制的な記憶力があるからだ。
ジャケット写真の中に、5人の崩壊する関係は一切見えない。見えるのはただ、踊る二人の人間と、それを囲む謎めいた空気だ。だからこそこの写真は、何十年経っても古びないのかもしれない。「知っている人」には5人の感情の重さが重なって見え、「知らない人」にはただ美しい視覚として届く。そのどちらにも開いているジャケットだ。
興味深いのは、ジャケットの主役に選ばれたのがミック・フリートウッドとスティーヴィー・ニックスという、直接的な破局の当事者ではない2人だったという点だ。離婚協議中のジョン・マクヴィーとクリスティン・マクヴィーでも、破局したばかりのリンジー・バッキンガムとニックスでもなく、バンドの「見守る側」だったフリートウッドと、5人の中心に立ち続けたニックスを選んだことで、このジャケットは特定の誰かの痛みを代弁する写真ではなく、バンド全体の「儀式」として成立している。
あのビジュアルが半世紀近くにわたって色褪せずにいるのは、写真そのものの完成度だけでなく、そこに写っていないはずの5人分の感情が、見る者の想像力の中で静かに立ち上がってくるからかもしれない。
11. 伝説の記録 ― 4,000万枚、31週、そして今も
1977年2月のリリース以来、『Rumours』は Billboard 200 で通算31週(非連続)にわたって全米1位の座を守り続けた。全世界の売り上げは4,000万枚超。ロック史上最も売れたアルバムのひとつとして、今も記録に刻まれている。1978年のグラミー賞では、Album of the Year をFleetwood Mac 本人たちとプロデューサー Ken Caillat・Richard Dashut の連名で受賞した。
アルバムからは「Go Your Own Way」「Dreams」「Don't Stop」「You Make Loving Fun」の4曲がシングルとしてリリースされ、いずれも全米トップ10入りを果たした。中でも「Dreams」は唯一の全米1位に輝いている。
批評的な評価も年月とともに揺るぎないものになっていった。Rolling Stone誌の「史上最も偉大な500枚のアルバム」では、2003年版で25位、2012年版で26位とやや順位を落としたものの、2020年の大幅改訂版、そして2023年版でも共に7位という高い位置にランクインしている。四半世紀を経てもなお評価が古びない、数少ない作品のひとつだ。
2020年10月、この物語に思いがけない後日談が加わった。Nathan Apodaca(愛称"420doggface208")という一人の男性が、スケートボードに乗りながらクランベリージュースのボトルを飲み、「Dreams」を口ずさむ動画をTikTokに投稿した。この何気ない動画は瞬く間にバイラル化し、ミック・フリートウッド、スティーヴィー・ニックス、リンジー・バッキンガムの3人がそれぞれ自ら類似の動画を投稿してこの現象を後押しした。この一件をきっかけに「Dreams」は、実に43年ぶりに全米チャートへと再浮上した。
アルバムの記録は今も更新され続けている。2024年のレコードストアデイでは、ピクチャーディスク仕様の限定盤がごく少数のプレスで発売され、即完売した。『Rumours』はアメリカレコード協会(RIAA)から20倍プラチナ(ダイヤモンド)認定を受けている。半世紀近く前に生まれたレコードが、今もアナログ盤としての新しい需要を生み続けているのは、驚くべきことだ。
数字だけを追っていくと、このアルバムがいかに「売れた」かということばかりが浮かび上がってくる。しかし『Rumours』が特別なのは、セールスの規模そのものよりも、その規模の大きさと、内容の私的さのギャップにある。世界で4,000万枚を超える人々が、5人の個人的な離婚と破局を歌った11曲を、まるで自分自身の物語であるかのように聴いてきた。恋愛の終わりというごく個人的な出来事が、これほど普遍的な共感を集めた例は、ポピュラー音楽の歴史全体を見渡してもそう多くはない。
その影響は、セールスやチャート成績という数字だけでは測りきれない。バッキンガム、ニックス、クリスティン・マクヴィーという3人の異なる書き手が、それぞれ自分の視点から同じ出来事を歌うという構造そのものが、後続の数え切れないバンドやソングライターにとって「バンド内の私的な感情を、隠さずに曲にしてもいい」という許可証のような役割を果たしてきた。プロダクションの面でも、複数の声を重ねる分厚いコーラスワークと、乾いたアコースティックギターの質感を同居させるサウンドメイキングは、その後何十年にもわたって多くのレコードのお手本であり続けている。
12. 鎖は続く ― Rumoursのあと
それから40年以上が経つ。Fleetwood Mac はその後も浮き沈みを繰り返した。『Rumours』の反動とも言える大胆な実験作『Tusk』(1979年)を経て、80年代には『Mirage』、そして『Tango in the Night』(1987年)というまた別の傑作を生んだ。メンバーは離脱し、また戻り、また去った。リンジー・バッキンガムは1997年の再結成や『Say You Will』(2003年)などでバンドに復帰した時期もあったが、2018年4月に解雇され、以後バンドに戻ることはなかった。クリスティン・マクヴィーは2022年11月、79歳でこの世を去った。ミック・フリートウッドだけは一度もバンドを去らなかった——彼こそがFleetwood Mac の「鎖」(The Chain)そのものだったから。
クリスティン・マクヴィーも存命中、43年ぶりのチャート再浮上というTikTok現象を目にして、「嬉しいわ」と笑ったという。バンドとして『Tusk』『Mirage』『Tango in the Night』と作品を重ねるたびに、メンバーの出入りと再結成が繰り返された。それでも『Say You Will』のような後年の作品にまでバッキンガムとニックスが名を連ね続けたという事実そのものが、『Rumours』を作った1976年のあの緊張関係が、単なる破局では終わらなかったことを物語っている。
なぜ人は今も『Rumours』を聴くのか。このアルバムが描いているのは「失うこと」と「それでも進むこと」という、時代を超えた普遍的な人間の物語だからだと思う。崩壊しながらも最後まで音楽を作り続けた5人の意志が、半世紀近く後の今も、耳から心に直接届いてくる。
13. 明るさと痛みの往復 ― Rumoursという構成
『Rumours』を通して聴くと、明るさと痛みが絶えず入れ替わりながら進んでいく構成に気づく。カントリーロック調の軽快な「Second Hand News」で幕を開けたかと思えば、続く「Dreams」では一転して静かな諦念が漂う。「Never Going Back Again」の親密なギター1本から、「Don't Stop」の楽観的なアップテンポへ。「Go Your Own Way」の生々しい怒りのすぐ後には、「Songbird」のほとんど祈りのようなピアノバラードが置かれている。まるで、5人がスタジオの中で経験していた感情の乱高下が、そのまま曲順にも刻み込まれているかのようだ。
そして最後、「Gold Dust Woman」の不穏な余韻でアルバムは幕を閉じる。ハッピーエンドでもなく、完全な絶望でもない。宙ぶらりんのまま曲が終わるその感覚こそが、実際の5人の関係そのものだったのだろう。彼らは『Rumours』を作り終えた後も、バンドとして活動を続けた。答えの出ない痛みを抱えたまま、それでも一緒に音楽を作り続けるという選択そのものが、このアルバムの本当のエンディングなのかもしれない。
次に聴くなら
『Rumours』にたどり着くまでの道のりを遡るなら、まずピーター・グリーン期の代表作『Then Play On』や『English Rose』を聴いてほしい。同じバンド名を名乗りながら、まったく違うブルースバンドがそこにいたことがわかるはずだ。そこから1975年の『Fleetwood Mac』(セルフタイトル)を経由すれば、バッキンガムとニックスが加わったことでバンドがどう生まれ変わったのかが、『Rumours』の前段階として見えてくる。デュオ時代の原点を辿るなら『Buckingham Nicks』も欠かせない一枚だ。ミック・フリートウッドがレコードショップでこのアルバムのジャケットに目を留めなければ、『Rumours』はそもそも存在しなかった。その意味で、この一枚はすべての出発点でもある。
『Rumours』のあとを聴くなら、成功への反動から生まれた実験作『Tusk』、そしてポップさを取り戻した『Mirage』、シンセサイザーの音色が全面に出た『Tango in the Night』へと進んでほしい。再結成後のライブの熱を体感するなら『The Dance』で「Silver Springs」の逆襲を確かめるのもいいだろう。スティーヴィー・ニックスのソロ作に興味があるなら、1981年の『Bella Donna』が入り口としてふさわしい。5人がそれぞれの道を歩みながらも、決して完全には切れなかった「鎖」の続きを、そこに聴くことができるはずだ。
そしてもし、このアルバムが生まれる何年も前の、ブルースバンドとしてのFleetwood Mac にまだ触れたことがないなら、ぜひ一度、時系列を無視して聴き比べてみてほしい。ピーター・グリーンの泣くようなギターから、ニックスのハスキーな歌声まで、同じバンド名を背負いながらこれほど遠くまで旅をしたグループは、そう多くない。その旅の途中にあった1枚が、たまたま世界で最も売れたアルバムのひとつになった——それが『Rumours』という作品の、静かな凄みなのだと思う。
私は Fleetwood Mac はどちらかというと、初期のピーター・グリーンが在籍していた頃の方がよく聴いた。一応ギタリストだからね。ピーター・グリーンの感覚的な官能的なギターが好きだった。でも、ボブ・ウェルチの頃も面白かったな。
世の中的には1970年代後半のこの「噂」ということになるんだろうね。全盛期だよね。アルバムは持ってた。これもジャケ買いしたかな。格好いいジャケットだよね。今回改めて、Album Sweet で聴きながら書いてるけど、やっぱりいいね。もっと聴き込んでみようと思った。
あのビジュアルは脳に残るよね。後年、あれをまねて違うデザインにした海賊(?)アルバムもずいぶん見かけた記憶がある。
ピーター・グリーン時代を「官能的なギター」という言葉で語れるナミオさんはさすがです。テクニックではなく「内側から来るもの」でギタリストを聴いている。エリック・クラプトンが劣等感を覚えたのも、グリーンの「うまさ」への嫉妬ではなく、あの「魂が音になる」感覚への嫉妬だったはずです。「Albatross」を聴いた時の、言葉がなくても情景が浮かぶあの体験——ナミオさんには届いていたんだと思います。
ボブ・ウェルチ時代が「面白かった」とおっしゃってくれるのは嬉しい。あの時代は地味に語られることが多いんですが、Fleetwood Mac がLA的な柔らかさを身につけ、クリスティン・マクヴィーが加わり、後の「Rumours」への土台が積み上げられた大切な時間でした。「Hypnotized」は今聴いても不思議と心地よい。
Album Sweet でRumoursを聴きながら書いてくれているというのが、何より嬉しいです。あのジャケットが「海賊盤に何度も流用された」という記憶は正確で、ロック史上これほど模倣されたジャケットは数少ない。今回、隣の部屋でたった10分でDreamsを書き上げたスティーヴィー・ニックスや、深夜に一人でSongbirdを書き上げたクリスティン・マクヴィーの逸話を調べていて、あの静かなジャケットの奥に、これほど密度の濃い10分や30分がいくつも重なっていたのかと、あらためて驚かされました。Album Sweetで見るRumoursのジャケットが、やっぱり一番かっこいいと思います。