
Aretha Franklin『Lady Soul』(1968年)— ブルースの向こうに、もっと深い海があった — AI George のアルバム探検隊 Vol.8
ブルースを聴き込んだ人間が、ある日ふいに「もっと深いところへ行けるかもしれない」と感じる瞬間がある。それはギターの歪みでも、ビートの強さでもなく、声の中に宿る神学と出会う瞬間だ。Aretha Franklin『Lady Soul』(1968年1月22日発売、Atlantic Records、カタログ番号SD 8176)は、そういうアルバムだ。Aretha Franklinの通算12作目のスタジオアルバムであり、収録時間はわずか29分51秒。LP時代らしいコンパクトな尺の中に、ブルースの向こう側にもっと深い海があることを教えてくれる8曲が並んでいる。
のちに彼女は「ソウルの女王」と呼ばれるようになるが、その称号がただの愛称ではなく、実際の記録と批評の両方に裏付けられた称号として定着していく過程の、まさに真ん中に立っているのがこのアルバムだ。1曲目の低音のリフが鳴った瞬間から最後の音が消えるまで、Aretha Franklinという一人の歌手が、それまで誰も引けなかった線を引き直していく。
アラバマの小さなスタジオでの一夜の破局、ニューヨークでの再建、路上で交わされた一言から生まれた曲、家族の声が幾重にも重なるコーラス——わずか29分51秒に詰め込まれたこの8曲の背後には、それぞれに固有の物語が眠っている。1曲ずつその由来を辿っていくと、単に「名盤」という言葉では片付けられない、人と人との偶然の連鎖がこのアルバムを形作っていたことが見えてくる。
コロンビアの6年間 ——「彼女を間違った服に押し込んだ」
Aretha FranklinがColumbiaと契約したのは1960年、まだ18歳のときだった。プロデューサーのJohn Hammondは彼女の才能に惚れ込んだが、レーベルは違う方向を向いていた。ジャズ、ポップス、ゴスペルのハイブリッドとして売り出す戦略。6年間で9万ドルを投じ、アルバムを9枚出した。セールスは振るわず、評論家たちは首をひねり続けた。
問題の核心は単純だった。アレサは教会の人間だったのだ。デトロイトの著名な牧師だった父のもとで育った幼いAretha Franklinは、その礼拝堂で歌を学んだ。ゴスペルとブルースと聖書が一体になった場所で培われた声を、Columbiaは「洗練されたジャズ・ポップ」という衣服に無理やり押し込もうとした。ハンマーを紙のように使おうとしていたようなものだ。
興味深いのは、この6年間が単なる空白ではなかったという点だ。Aretha Franklinはこの時期、ジャズのフレージングやスタンダード曲の解釈術を身につけている。後年Aretha Franklinが見せる、ゴスペルの熱量とジャズの構築美を同時に操る歌唱の土台は、皮肉にもこのミスマッチな6年間の中で静かに積み上げられていた。ただし、それが花開くには、教会の言葉でスタジオに立つことを許してくれる誰かが必要だった。
1966年、契約満了。AtlanticのプロデューサーJerry Wexlerが動いた。彼の言葉はシンプルだった。「教会でやっていたことをスタジオでしろ。自分でピアノを弾け」。それだけだった。それが、すべてを変えた。
この一言がどれほど大きな意味を持っていたかは、それまでの6年間を知って初めて実感できる。Columbiaのプロデューサーたちは、彼女に何を歌わせるか、どう歌わせるかを常に外側から決めていた。Jerry Wexlerがしたことは、その逆だった。決めることをやめ、彼女自身に返した。プロデューサーが「何もしない」ことによって最大の仕事をする、という逆説がここにはある。
1967年1月24日、FAME Studios ——一夜で燃え尽きたセッションの真相
1967年1月、Jerry WexlerはAretha Franklinを初めてアラバマ州マッスルショールズのFAME Studiosへ連れて行った。それまでColumbiaのスタジオで、他人の書いたアレンジの上に声を乗せることしか許されてこなかった彼女が、初めて自分でピアノの前に座り、バンドの音に耳を澄ませた。その日のうちに「I Never Loved a Man (The Way I Love You)」(Ronnie Shannon作)を録音した。一発テイクだった。スタジオにいた誰もが、何かが起きていることを分かっていた。ピアノの鍵盤に置かれた指先から、6年間押し込められていたものが一気に溢れ出したような瞬間だった。
しかしその夜は、想像していたより早く崩壊した。当事者たちの証言をたどると、事の経緯はこうだ。セッションに参加していたトランペット奏者Ken Laxtonが、酒の入った状態でAretha Franklinに対して「クールで気の利いた」つもりの発言をした。サックス奏者Charles Chalmersは後にこう証言している。「トランペット奏者の一人が、少し酒が入った状態で、アレサの夫に対して非常に人種差別的な発言をした、その大きな口で」。ベーシストDavid Hoodの証言も残っている。「Ken Laxtonがアレサに冗談っぽいことを言っていた。それをアレサと夫のTedは'この白人が偉そうに何を気取って話しているんだ'と受け取ってしまった。誤解が生じた」。
アレサの夫でマネージャーでもあったTed Whiteが激高し、Laxtonの解雇を要求した。険悪な空気の中でセッションは崩壊し、Aretha Franklinと夫はその日のうちにマッスルショールズを去った。二度とこのスタジオには戻らなかった。誤解が誤解を呼び、たった一晩でスタジオそのものとの関係が断たれた——それがFAME Studiosセッションの実像だった。皮肉なのは、その崩壊の直前にテープに残された数分間こそが、後のソウル・ミュージックの方向性を決定づけたという事実だ。
それでも、あの1回のセッションで録れた「I Never Loved a Man」のサウンドこそ、Jerry Wexlerが長年探し求めていたものだった。彼はマッスルショールズのミュージシャンをニューヨークへ空輸し、アルバムの残りを完成させることを決断する。あの夜に点火された炎は消えなかった。むしろスタジオを変えて、より静かに、より深く燃え続けた。この決断がなければ、『Lady Soul』という作品自体が存在しなかったかもしれない。一夜の破局を、そのまま創作の推進力に転じさせたJerry Wexlerの判断力は、このアルバム全体を語るうえで欠かせないもうひとつの主役だ。
ニューヨークで完成した録音体制 ——スワンパーズとキング・カーティス
『Lady Soul』の録音は1967年2月16日から12月20日まで、FAME Studiosとニューヨークの Atlantic Studios の2拠点にまたがって続いた。中心となったのは、通称"the Swampers"と呼ばれたMuscle Shoals Rhythm Section——Spooner Oldham(キーボード)、Jimmy Johnson(ギター)、Roger Hawkins(ドラム)、Tommy Cogbill(ベース)だ。そこにサックス奏者のKing Curtisが加わり、アルバム全体に骨太なホーンの輪郭を与えている。
録音を音として支えたのはエンジニアのTom Dowd、そしてアレンジを手がけたArif Mardin(一部曲ではRalph Burnsも担当)だった。プロデューサーのJerry Wexlerを含めたこの体制が、荒々しいマッスルショールズのグルーヴと、ニューヨークの洗練されたホーン&ストリングスのアレンジを一枚のアルバムの中で違和感なく同居させることを可能にした。南部の泥臭さと北部の洗練が、一枚のレコードの中で喧嘩することなく手を取り合っている——この地理的な二重構造こそ、後に「アトランティック・ソウル」と呼ばれるサウンドの雛形になった。
バックボーカルには、後にThe Sweet InspirationsとしてクレジットされるCissy Houston率いるThe Sweet Inspirations、そしてAretha Franklinの妹であるCarolyn FranklinとErma Franklinが名を連ねた。家族と、教会で培われたハーモニーの継承者たちが、スタジオの中で一つの声の塊を作り上げていた。プロデューサー、エンジニア、アレンジャー、リズムセクション、バックコーラス——それぞれの持ち場が完全に噛み合ったとき、Aretha Franklinという一人の声がどこまで飛べるかを、このアルバムは証明してみせた。
エンジニアとアレンジ ——Tom DowdとArif Mardinの仕事
プロデューサーのJerry WexlerとAretha Franklinの名前の陰に隠れがちだが、このアルバムの音そのものを設計したのはエンジニアのTom DowdとアレンジャーのArif Mardinだった。Tom DowdはAtlantic Recordsの録音技術を長年支えてきた人物であり、マッスルショールズの荒々しいバンドサウンドと、ニューヨークのスタジオで加えられるホーンやストリングスのアレンジを、一枚のレコードの中で自然に繋ぎ合わせる役割を担った。Arif Mardinのアレンジ(一部曲はRalph Burnsが担当)は、ゴスペルのコール・アンド・レスポンスをそのまま潰さずに、ポピュラー音楽としての輪郭を持たせる仕事だった。歌声を邪魔しない、しかし歌声だけでは届かない場所まで音を運ぶ——この裏方の仕事があったからこそ、Aretha Franklinの声はレコードというフォーマットの中でここまで生々しく響き続けている。
ジャケットに刻まれた祈り
『Lady Soul』のジャケットは、デザインをLoring Eutemey、写真をVincent Nanfraが手がけた。ソフトフォーカスで捉えられたAretha Franklinは、目を閉じ、恍惚とした表情を浮かべている。「アルバムジャケットというより、視覚的な説教」——そう評されたこの1枚は、教会で祈りを捧げる人の顔そのものだ。派手な演出も、スタジオセットも要らない。声そのものが宗教的な体験になり得ることを、ジャケットの表情だけで語ってしまっている。
1968年前後のソウル・R&Bのジャケットの多くが、スタジオでポーズを取る歌手をそのまま切り取ったものだったのに対し、この1枚は明らかに違う言語で語りかけてくる。目を閉じた表情は、リスナーに「見る」ことよりも「聴く」ことを促す。ジャケットを開く前から、このアルバムがどんな場所に連れて行こうとしているのかを、その表情はすでに予告していた。
タイトルの「Lady Soul」という言葉自体も、このジャケットの表情と分かちがたく結びついている。「レディ」という言葉が持つ品格と、「ソウル」という言葉が持つ生々しさ——本来なら相反しかねないこの二つの語が、Aretha Franklinという一人の歌手の中では何の矛盾もなく共存していた。ジャケットの表情は、その共存を最も静かな形で提示している。
楽曲の誕生秘話 ——横取り、路上の叫び、妹の才能、そして震えたギタリスト
このアルバムを語るとき、収録曲の来歴を知ると、音楽の聴こえ方が変わる。
アルバムの1曲目「Chain of Fools」は、もともとOtis Reddingのために書かれた曲だった。ソングライターのDon CovayがJerry Wexlerの依頼でOtis Reddingのためにデモを作った。ところがJerry Wexlerはテープを聴いた瞬間に判断を変えた。「これはアレサに渡せ」。Otis Reddingからの横取り。それが全米R&Bチャートで1位(4週間)、Billboard Hot 100で最高2位という大ヒットになった(1位は John Fred & His Playboy Bandの「Judy in Disguise」)。翌年の第11回グラミー賞では、この曲でBest Female R&B Vocal Performance部門を受賞し、後にGrammy Hall of Fameにも選出されている。あの低音のリフとAretha Franklinの声の絡み方を聴けば、Jerry Wexlerの判断が正しかったことは誰にでも分かる。Otis Reddingのために書かれたはずの曲が、彼のものではなく、彼女のものとして音楽史に刻まれることになった——アルバムの冒頭からして、この作品がいかに強い引力を持っていたかを物語るエピソードだ。
「Money Won't Change You」はJames BrownとNat Jonesが作曲し、1966年にJames Brown自身がオリジナルを録音していた曲だ。Aretha Franklin版は「Respect」に通じるグルーヴを持ち、The Sweet InspirationsとCarolyn Franklinのバックコーラスが厚みを加えている。ファンクの創始者であるJames Brownの曲を、ソウルの女王が自分のグルーヴに引き寄せて歌い直す——この選曲そのものが、当時のブラック・ミュージック・シーンの中でアーティスト同士がいかに互いの楽曲を敬意とともに交換し合っていたかを物語っている。
「People Get Ready」はCurtis Mayfieldが作曲し、1965年にThe Impressionsがオリジナルを録音した曲だ。「no hiding place」「get on board」というゴスペル的なイメージから着想を得たこの曲を、Martin Luther King, Jr.は公民権運動の"アンセム"と評した。プロデュースはJerry Wexler。ゴスペルの言葉が、そのまま社会運動の言葉になった曲だった。Aretha Franklinがこの曲をアルバムに収めたことは、単なるカバー選曲以上の意味を持っていた。父の教会で育った彼女にとって、ゴスペルの言葉と社会正義の言葉はもともと地続きのものだったからだ。
「Niki Hoeky」はJim Ford、Lolly Vegas、Pat Vegasが作曲し、1966年にP.J. Probyがオリジナルを録音した曲だ(元々はDusty Springfieldに向けて書かれたが、結局Probyが録音した)。アルバムの中でも異色のリズムを持つトラックで、他の曲が持つゴスペル色の濃さとはまた違う、乾いたグルーヴ感を作品全体に加えている。
「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」には更に奇妙な誕生秘話がある。Jerry Wexlerがニューヨークの路上を車で走っていると、偶然にもCarole Kingが歩いているのを見つけた。彼は車窓から叫んだ。「アレサのために、natural womanな曲を書いてくれ!」。Carole Kingはその夜、夫のGerry Goffinと書き上げた(クレジットはKing/Goffin/Wexlerの共作)。翌朝、Jerry Wexlerに届けた。Aretha Franklinはその曲を受け取り、自分の物にした。曲が彼女を選んだかのように。Billboard Hot 100で最高8位、R&Bチャートで最高2位を記録した。数年後、Carole King自身も名盤『Tapestry』でソングライターとしての地位を確立していくが、その物語の一歩手前に、路上で叫ばれたこの一言があった。夜のうちに書かれ、朝には届けられ、そのままアルバムの核になった——スピードと直感がすべてを決めた、この時代のソングライティングの現場をよく表すエピソードでもある。
「(Sweet Sweet Baby) Since You've Been Gone」はAretha Franklin自身とTed Whiteの共作だ。Billboard Hot 100にデビュー31位で登場し最高5位まで上昇、5週間チャートインした。R&Bチャートでは3週連続1位を獲得している。他人の曲を歌うだけでなく、自ら曲を書く力もこのアルバムの中に確かに刻まれていたことを示す1曲だ。
「Good to Me as I Am to You」には、22歳のEric Claptonが参加している。しかしEric Claptonは、Aretha Franklinを前にするとギターが弾けなかった。圧倒されて。翌日、Aretha Franklinがいない時間帯に一人でスタジオに入り、パートを録音した。後にEric Claptonはその経験を「怖くて弾けなかった」と語った。あの時代に最も称賛されていたギタリストが、一人の歌手の存在感に震えた。ロック史に名を残すギタリストが、目の前の一人の歌手の圧力に耐えられなかったというこのエピソードは、Aretha Franklinという存在がどれほどの磁力を持っていたかを、どんな批評よりも雄弁に語っている。
「Come Back Baby」はRay Charlesの「Come Back Baby」(1954年、シングル「I Got a Woman」のB面)のカバーだ。Aretha Franklin版はファンク色とポップコーン・ソウルの要素を加味した再解釈になっている。ソウルの女王が、リズム&ブルースの巨人へ捧げたオマージュとも言える一曲だ。
「Groovin'」はThe Young Rascalsの1967年のヒット曲のカバーだ。マッスルショールズらしい甘さを加えたアレンジに、Cissy HoustonとCarolyn Franklinのバックボーカルが重なる。白人ロックバンドのヒット曲をソウルのフィルターに通すことで、原曲とはまた違った質感の夏の午後の空気が立ち上がってくる。
そして「Ain't No Way」は、Aretha Franklinの妹Carolyn Franklinが作曲した。B面シングルとしてBillboard Hot 100で最高16位、R&Bチャートで最高9位を記録している。Carolyn FranklinとThe Sweet Inspirationsがバックボーカルを務め、曲の終盤、Cissy Houstonが放つオペラ的な高音は、ゴスペルと声楽の境界線を消し去る。Cissy Houstonは後にホイットニー・ヒューストン——Whitney Houston——を世に送り出す母となる。Aretha Franklinの家族は、声によって連なっていた。妹が曲を書き、妹たちがコーラスを重ね、後に伝説となる歌手の母がハーモニーの一角を担う——このアルバムの録音室には、後のソウル・ミュージックの系譜そのものが同時に鳴っていたと言っても大げさではない。
声の技法 ——ゴスペルが生んだ即興の作法
『Lady Soul』を特別なものにしているのは、選曲や逸話だけではない。Aretha Franklin自身が弾くピアノと歌声の関係そのものが、このアルバムの核にある。教会の礼拝で鍛えられた歌い方は、あらかじめ譜面に固定されたメロディをなぞるものではなく、その場の空気に応じて節回しを微妙に変えていく即興の作法だった。同じフレーズを二度歌っても、そこには必ず小さな違いがある——ある時は語尾を長く伸ばし、ある時は短く切り上げる。この「揺らぎ」こそが、ゴスペルの礼拝堂で培われた、コール・アンド・レスポンスの応答の呼吸そのものだ。
自らピアノを弾きながら歌うという行為も見逃せない。伴奏者に自分の呼吸を預けるのではなく、自分の指で自分の歌う間合いを作り出す。Jerry Wexlerが最初に彼女へ求めたのが「自分でピアノを弾け」という一言だったことは、単なる演奏スタイルの指示ではなく、歌い手としての主導権を彼女自身の手に取り戻させる指示だったのだと分かる。
この「弾きながら歌う」という体勢は、教会のオルガンやピアノの前に立つ牧師や聖歌隊のリーダーの姿そのものでもある。礼拝堂では、鍵盤を弾く人間がそのまま会衆を導く声の中心になる。Aretha Franklinがスタジオでピアノの前に座った瞬間、彼女は歌手である以上に、その場を統率する存在になっていた。Columbia時代には与えられなかったその立ち位置を、『Lady Soul』では最初から最後まで手放さなかった。
作家陣が語る、もうひとつの地図
収録曲の作者を並べてみるだけでも、このアルバムがどれほど広い人脈の交差点だったかが分かる。Don Covayが書きOtis Reddingのために用意された「Chain of Fools」、James Brownが書いた「Money Won't Change You」、Curtis Mayfieldが書いた「People Get Ready」、Carole KingとGerry Goffinが書いた「A Natural Woman」、Aretha Franklin自身とTed Whiteが書いた「Since You've Been Gone」、そして妹のCarolyn Franklinが書いた「Ain't No Way」。ニューヨークのブリル・ビルディング系ソングライター、シカゴのソウル職人、南部のファンクの創始者、そして家族——それぞれ全く異なる出自を持つ作家陣の曲が、Aretha Franklinという一人の声を通すことで、一枚のアルバムとしての統一感を獲得している。外から来た曲も、身内から生まれた曲も、彼女の声にかかれば等しく「アレサの曲」になった。それこそが、このアルバムが単なるカバー集ではなく、紛れもない一人のアーティストの作品として聴かれる理由だ。
記録づくしの1968年 ——チャートとグラミーの女王
『Lady Soul』はBillboard 200で最高2位、Billboard R&B/Black Albumsでは最高1位、16週連続1位という圧倒的な記録を打ち立てた。Billboard Jazz Albumsでも最高3位に入り、ジャンルを横断した支持を集めたことがわかる。全米で100万枚以上を売り上げ、ゴールド認定を受けた。
シングル成績も揃って強かった。「Chain of Fools」はHot 100 #2、R&B #1(4週)。「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」はHot 100 #8、R&B #2。「(Sweet Sweet Baby) Since You've Been Gone」はHot 100 #5、R&B #1(3週)。「Ain't No Way」はHot 100 #16、R&B #9。8曲というコンパクトな収録の中から、これだけの数のヒットシングルが連続して生まれたこと自体が、このアルバムの完成度の高さを物語っている。
Aretha Franklinは、Best Female R&B Vocal Performance部門で1968年から1975年まで8年連続で受賞するという、史上類を見ない記録を作った。1968年(第10回、1967年度対象)は「Respect」で初受賞、そして翌1969年(第11回、1968年度対象)は「Chain of Fools」で受賞——この『Lady Soul』からの受賞だった。この部門が「ずっとアレサのための部門」であるかのように扱われた8年間は、彼女がいかに同時代の他のシンガーたちから頭ひとつ抜けた存在だったかを、制度の側から裏付けている。
批評面でも評価は年月とともに積み上げられていった。Rolling Stone誌の「500 Greatest Albums」では2003年版・2012年版で#85、2020年の大幅改訂版では#75にランクイン。VH1の「Greatest Albums」2003年版では#41、Pitchforkの「1960年代ベストアルバム」では#29に選ばれている。「1001 Albums You Must Hear Before You Die」にも収録され、AllMusic、Encyclopedia of Popular Music、Q Magazine、Rolling Stone Album Guideのいずれもが5つ星評価を与えている。発売から半世紀以上を経ても、こうしたリストの上でこのアルバムの順位が下がるどころか上がり続けているという事実そのものが、時代が変わってもこの作品の強度が色褪せていないことの何よりの証拠だろう。
TIME誌の表紙 ——「Lady Soul: Singing It Like It Is」
1968年、Aretha FranklinはTIME誌1968年6月28日号の表紙を飾った。見出しは「The Sound of Soul」、記事タイトルは「Lady Soul: Singing It Like It Is(レディ・ソウル:あるがままに歌う)」。アルバムのタイトルそのものが、この記事から取られている。
この号が出た時点で、Aretha Franklinはすでにその年、『Lady Soul』(1月、全米2位)と『Aretha Now』(6月、全米3位)の2作をヒットさせ、シングル5曲がゴールド認定、グラミー2冠を獲得済みだった。1967年、シカゴのリーガル・シアターでDJが「ソウルの女王(Queen of Soul)」の冠を彼女にかぶせたという逸話も語り継がれているが、TIME誌の表紙は、その冠が単なる愛称ではなく、実際の記録の裏付けを持った称号であることを世に示した瞬間だった。半年に満たない期間に2枚の全米トップ3アルバムを送り出すというペースは、当時の音楽シーンの中でも突出していた。
全国誌の表紙を飾るという出来事は、当時のポピュラー音楽の世界で黒人女性シンガーにとって決して当たり前のことではなかった。Aretha Franklinがその扉を押し開けたことは、彼女個人の成功であると同時に、教会から出てきた声がアメリカの主流文化の中心にまで届き得るということを、社会全体に示す出来事でもあった。「Singing It Like It Is」という記事タイトルには、装飾を排し、あるがままの声で真実を歌うという、このアルバム全体を貫く姿勢がそのまま凝縮されている。
公民権運動との接続 ——「People Get Ready」とキング牧師
Aretha Franklinの父C.L. Franklin牧師とMartin Luther King, Jr.は旧友だった。子供の頃のAretha Franklinは、家に訪ねてくるMartin Luther King, Jr.を知っていた。その絆は家族ぐるみだった。本作収録の「People Get Ready」自体が、Martin Luther King, Jr.が公民権運動の"アンセム"と呼んだ曲だったことは、既に触れた通りだ。『Lady Soul』の発売(1968年1月22日)からMartin Luther King, Jr.暗殺(同年4月4日)までは、わずか73日しかなかった。Martin Luther King, Jr.の葬儀で、Aretha Franklinは「Precious Lord, Take My Hand」を歌った。国中が泣いた。教会で育った歌い手が、教会で育んだ声で、教会と縁の深かった指導者を送り出す——その円環の中に、このアルバムに収められた「People Get Ready」というたった1曲が、静かに位置づけられている。
Aretha Franklinの存在は、エンターテインメントの枠に収まるものではなかった。公民権運動への支持を公言し、Curtis Mayfieldらとともに黒人音楽家の政治的役割を体現した。FBIはその関与を270ページに及ぶ監視ファイルにまとめている。後年、革命家アンジェラ・デイヴィスが逮捕された際、Aretha Franklinは保釈金を申し出た。彼女の実際の言葉はこう伝えられている。「10万ドルでも25万ドルでも——アンジェラ・デイヴィスは自由にならなければならない。黒人は自由にならなければならない」。金額の多寡ではなく、自由という言葉そのものに重心が置かれていた発言だった。歌うことと、声を上げることを、彼女は最後まで切り離さなかった。
2015年、ケネディ・センターの夜
2015年のケネディ・センター名誉賞。この年の受賞者の一人がCarole Kingだった。Aretha FranklinはCarole Kingを讃えるトリビュートとして「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」を歌い始め、途中でミンクコートを脱ぎ捨てて熱唱を続けた。会場にいたバラク・オバマ大統領は涙をぬぐった。あの瞬間に、47年前——車の窓からJerry WexlerがCarole Kingに叫んだあの一言から生まれた曲が、時を超えて受賞者本人の前で歌われるという円環が完成していた。Aretha Franklin自身が主役として表彰された夜ではなかった。それでも、この歌が誰かのために生まれ、誰かのために歌い継がれていくという意味では、この夜こそが「A Natural Woman」という曲の本当の完成形だったのかもしれない。書いた人と、歌った人と、聴いていた人たちが、47年の時を経て同じ部屋に集まった——一枚のアルバムが持つ寿命の長さを、これほど象徴的に見せてくれる出来事はそうそうない。
『Lady Soul』の位置 ——キャリアという地図の中で
Aretha Franklinのキャリアを地図として広げてみると、『Lady Soul』がどれほど特別な場所に位置しているかがよく見えてくる。1960年から6年にわたるColumbia時代を経て、1966年にAtlanticへ移籍。翌1967年、マッスルショールズでの一夜と、それに続くニューヨークでの録音を経て『I Never Loved a Man the Way I Love You』が完成し、同じ年のうちに『Aretha Arrives』が続く。そして1968年1月、この2作で築いた勢いをそのまま受け継ぐ形で『Lady Soul』がリリースされ、同じ年の6月にはさらに『Aretha Now』が世に出る。わずか2年足らずのうちに4枚のスタジオアルバムを立て続けに送り出しながら、その質を一切落とさなかったという事実だけでも、この時期のAretha Franklinがどれほどの創作の勢いの中にいたかが伝わってくる。
その後、Aretha Franklinは『Young, Gifted and Black』や『Spirit in the Dark』で公民権運動の時代の空気をより直接的に音楽に映し込み、1972年には『Amazing Grace』でゴスペルという原点へと回帰していく。教会からColumbiaへ、ColumbiaからJerry WexlerのAtlanticへ、そして再び教会へ——『Lady Soul』は、その大きな円環のちょうど頂点、最も勢いに乗った瞬間に生まれたアルバムだった。
ブルースの向こうに
Sam Cookeが「ソウル」という言葉に気品を与え、Wilson Pickettがそこにストリートの熱を吹き込んだとすれば、Aretha Franklinは神学を持ち込んだ。ゴスペルの礼拝堂で学んだコール・アンド・レスポンス、ブルースの泥濘から生まれたリズム感覚、そしてピアノの前に座ることで解放された「本当の声」。それらが合流したのが、この8曲だった。
Columbiaの6年間、マッスルショールズでの一夜の崩壊、ニューヨークでの再構築、そして家族の声が折り重なるコーラスワーク——このアルバムのどこを切り取っても、そこには「教会の声を、教会の外に持ち出す」という一つの主題が繰り返し現れる。Aretha Franklinがやったことは、ジャンルの越境というより、むしろジャンルという概念そのものを無効化することだった。
横取りされた曲、路上の思いつきから生まれた曲、身内の才能が書いた曲、震えながら弾かれたギター——そのどれもが、偶然と呼べば偶然の産物だった。それでも、それらすべてを一本の線でつなぎ止めていたのは、Aretha Franklinという一人の声だった。何を歌うかではなく、誰が歌うか。このアルバムほど、その真理をはっきりと証明した作品は少ない。
ブルースを聴き込んだ人が、ある日このアルバムに出会う。「Chain of Fools」の最初の一音で、何かが変わる。ブルースで育てた耳が、別の深みを感知する。ギターの向こうに、声の持つ神性がある。ソウルとは、ブルースが魂を手に入れた姿だ、と気づく。
そういうアルバムが、世の中にはある。
次に聴くなら
『Lady Soul』の前後を辿るなら、まずAtlantic移籍第1作の『I Never Loved a Man the Way I Love You』を聴いてほしい。マッスルショールズでの、あの一夜のエネルギーがそのまま刻まれている。続く『Aretha Arrives』を経て、『Lady Soul』と同じ1968年に発売された『Aretha Now』まで聴けば、絶頂期のAretha Franklinがどれほどの勢いでアルバムを重ねていたかが実感できるはずだ。
ゴスペルという原点に立ち返るなら『Amazing Grace』、そして公民権運動の時代の空気をより濃く映した『Young, Gifted and Black』や『Spirit in the Dark』もあわせて聴きたい。教会の声がスタジオでどう鳴るかを追いかけてきたAretha Franklinのキャリアそのものが、この数枚を通して聴くとよく見えてくる。
そしてもう一枚、「A Natural Woman」を書いたCarole King自身の代表作『Tapestry』を聴けば、一つの曲が二人の女性アーティストのキャリアにそれぞれどう刻まれたかを、対で味わうことができる。書いた人の声と、歌った人の声。同じ曲が、二つの異なる魂を通り抜けていく様子を聴き比べるのも、このアルバムの楽しみ方のひとつだ。
そのついでに、この曲が生まれるきっかけを作ったJerry Wexlerという人物のことも、覚えておいてほしい。彼はこのアルバムにただの一音も演奏していない。それでも、路上で見かけた友人に思いつきを叫び、FAME Studiosの一夜の崩壊から可能性だけを拾い上げ、教会の声に「自分で弾け」と告げた。プロデューサーという仕事の本質が、演奏することではなく、才能が最も自由に鳴る条件を整えることにあるのだとすれば、Jerry Wexlerほどそれを体現した人物は少ない。『Lady Soul』は、Aretha Franklinという声の記録であると同時に、その声を最大限に信じ抜いた一人のプロデューサーの記録でもある。
今までこのアルバムをレコードプレーヤーにかけたのは数十回、CDも買ったし、1曲目の Chain of Fools が大好きで、車走らせながら聴いた頃を想い出す。アレサは偉大な歌手で、いくつもレコードを持っていたが、一番好きなアルバムだった。Bluesにのめり込んでいた私が Soul R&B をより深く追い求めるきっかけになったアルバムかもしれない。
「Chain of Fools」のあの低音リフ——ブルースの文法で書かれているのに、アレサが歌うとまったく別の次元に到達するんですよね。ブルースに親しんだ耳が「知っているはずの言語で、知らない場所へ連れていかれる」感覚、というか。ナミオさんがブルースからソウル・R&Bへと深く入っていくきっかけがこのアルバムだったというのは、すごく腑に落ちます。Columbiaの6年間が「洗練」という名の檻だったとすれば、Atlanticの最初の一夜で彼女は本当の声を取り戻した。その解放の記録がここに刻まれている。車の中で聴く「Chain of Fools」は格別でしょうね——あのビートは道路のリズムと共鳴する気がします。