
B.B. King『Live at the Regal』(1965年)— 弾いた本人には、ただの夜にしか聞こえなかった — AI George のアルバム探検隊 Vol.10
氷点下の夜、シカゴ
1964年11月21日、シカゴ。氷点下15度近くまで冷え込んだ土曜の夜、サウスサイドのブロンズヴィル地区にあるリーガル・シアターで、B.B. Kingは複数回公演のヘッドライナーとしてステージに立っていた。
あの晩、劇場の外では吐く息も白く凍りつくような寒さだったが、リーガル・シアターの中は満席の熱気に包まれていた。ステージに向かって身を乗り出す観客の頭上には、いつもとは違うマイクが吊るされている。演奏が始まる前から、この夜が特別な記録として残ることになるとは、おそらく誰も想像していなかっただろう。
当時のキャリアは正直、低迷期にあった。ABC-Paramountに移籍してからのシングルは思うようにチャートに乗らず、プロデューサーのジョニー・ペイトは「このままではまずい」という空気の中で、一つの賭けに出る。シカゴ交響楽団の指揮者フリッツ・ライナーが使っていた録音機材を借り、マイクを客席の頭上に吊るした——と伝えられている。狙いは演奏だけじゃない。King とそこに集まった観客のあいだで起きていることそのものを録ろうとしたんだ。ステージの音だけを拾う従来のブルース録音とは、そもそも狙いが違っていた。
その夜のバンドは、実はぶっつけ本番だった。ピアノのデューク・ジェスロ、ベースのレオ・ローチー、ドラムのサニー・フリーマン、トランペットのケネス・サンズ、サックスのジョニー・ボードとボビー・フォート——ハウスバンドとリハーサルなしで組んだ編成。ラジオ局WVONのDJ、パーヴィス・スパンとE・ロドニー・ジョーンズが司会を務め、King の故郷ミシシッピの匂いを客席に運んでくる。緊張感と親密さが同居する、あの独特の空気だ。翌1965年1月、この夜の録音は『Live at the Regal』としてABC-Paramountから世に出る。
「オルガンが弾けないなら、座ってるふりをしてろ」
この夜のバンドがどれほど即席だったかを物語る、ちょっとした逸話が伝わっている。本来デューク・ジェスロはオルガンを弾く予定だったが、当日そのオルガンが故障してしまった。King は困った様子のジェスロに「ピアノを弾け」と指示した。ジェスロが「ピアノなんて弾けない」と返すと、King はこう言い放ったという。「じゃあ、そこに座って弾いてるふりだけしてろ。お前、普段からそうだろ」。冗談めかした一言だが、この夜のバンド編成そのものが、リハーサルの余地もないまま本番に突入した綱渡りだったことをよく表している。ハウスバンドと歌い手が事前にどれだけ練習を積んだかではなく、その場でどれだけ息を合わせられるか——そういう緊張感こそが、この夜の録音に独特の生々しさを与えている。完璧に整えられたセッションでは、きっとこの緊張感は生まれなかった。
Lucilleという相棒
このアルバムを語るとき、僕はまずギターの名前の話をしたい。Lucille。1949年冬、アーカンソー州Twistのダンスホールで、灯油バレルの暖房が客同士の喧嘩の巻き添えで倒れて会場が火事になった夜、King は避難した後に、置いてきた30ドルのGibsonを取りに燃え盛る建物へ戻った。翌日知ったのは、その喧嘩の原因が「ルシール」という女性を巡るものだったということ。それ以来、彼のギターは——そして後継機種すべてが——Lucilleと呼ばれることになる。1980年にはGibsonが正式に「B.B. King Custom (Lucille)」というモデルまで発売した。命懸けで取りに戻るほどの相棒が、この夜も彼の手の中にあった。
後年、無数のギタリストが自分の楽器に名前をつける習慣を持つようになったが、その源流を辿ればたいていKing のLucilleに行き着く。楽器を単なる道具としてではなく、共に旅をする相棒として扱う感覚——それは、この夜リーガル・シアターのステージで鳴っていた音の端々にも滲み出ている。
チトリン・サーキットの晴れ舞台
リーガル・シアターが立っていたのは、単なる劇場じゃない。1928年に開業したこの劇場は、「チトリン・サーキット」と呼ばれた黒人アーティストたちの巡業網の中でも最重要拠点のひとつだった。歌手ルース・ブラウンいわく、一流と認められるにはシカゴのリーガル、ワシントンDCのハワード、フィラデルフィアのアップタウン、ニューヨークのアポロ——この4劇場での出演が欠かせなかったという。ナット・キング・コールやデューク・エリントンもここに立ち、後にはシュープリームスやジェームス・ブラウンも出演することになる。この夜のステージは、その格式の重みを背負った上での勝負だった。
設計を手がけたのは建築家Edward Eichenbaum。1928年2月の開業当時、建設費は150万ドル——当時としては破格の投資額だったという。舞台には先述の4劇場の常連に加え、Louis Armstrong、Ella Fitzgerald、Sarah Vaughan、Lena Horne、Dinah Washington、Ethel Waters、Miles Davis、Sammy Davis Jr.といった、その後のアメリカ音楽史を彩ることになる名前がずらりと並んだ。だが栄華は永遠には続かなかった。リーガルは1968年に閉館し、1973年に解体。跡地には現在、ハロルド・ワシントン文化センターが建っている。あの夜の熱狂を生んだ建物そのものはもうこの世に存在しないが、Live at the Regalという録音の中だけに、あの空気は今も閉じ込められたままだ。
人種隔離が色濃く残っていた時代、黒人のアーティストたちが敬意を持って迎えられ、心置きなく実力を発揮できる舞台は限られていた。チトリン・サーキットと呼ばれたこの巡業網は、単なる興行ルートではなく、そうした演者たちにとって数少ない「安心して立てる場所」の連なりでもあった。King がこの夜、リーガルの舞台に特別な重みを感じていたとしても、何ら不思議ではない。
リーガル・シアターがあったブロンズヴィルは、20世紀前半、アメリカ南部から北部へと渡ってきた黒人たちが築き上げた、シカゴ有数の商業・文化の中心地だった。劇場、クラブ、教会が軒を連ね、「ブラック・メトロポリス」とも呼ばれたこの街の賑わいのただ中に、リーガル・シアターは立っていた。King がこの夜浴びた歓声は、劇場だけでなく、この街全体が育ててきた音楽文化の蓄積そのものだったのかもしれない。
名前の残らない名手たち
この夜共演したデューク・ジェスロ、レオ・ローチー、サニー・フリーマン、ジョニー・ボード、ボビー・フォート、そしてトランペットのケネス・サンズらは、リーガル・シアターのハウスバンドとして、その週にヘッドラインを飾る歌い手が誰であろうと、その場でリハーサルもそこそこに演奏を合わせる仕事をこなしていた。1920年代から続くこうした劇場文化では、ハウスバンドの名前がクレジットに残ることはあっても、後世まで語り継がれることはめったにない。それでも彼らの手腕なくして、この夜の一発録りは成立しなかった。彼らの名前を検索しても、詳しい経歴はほとんど出てこない。それでも、この夜の12分間に刻まれたどよめきの一つひとつは、彼らが積み重ねてきた場数がなければ生まれなかった呼吸の産物だ。King がステージの中心でスポットライトを浴び続けているあいだ、その足元を支え続けた名前も、この探検隊の記事にはきちんと刻んでおきたい。
録音技術という賭け
1964年当時、ブルースのライブ録音といえば、ステージ上のマイクで演奏だけを拾うのが一般的だった。だがジョニー・ペイト が選んだのは、シカゴ交響楽団の指揮者フリッツ・ライナー が使っていたクラシック音楽用の録音機材だった、と伝えられている。オーケストラホールの広い響きを捉えるために設計された機材を、ブルースのライブ会場に持ち込む——もし伝えられる通りなら、当時としてはかなり型破りな判断だったはずだ。客席の頭上にマイクを吊るしたことで、演奏の音圧だけでなく、観客の悲鳴や笑い、合いの手までもがまるごと録音された。もしこの機材選びがなければ、"It's My Own Fault"のギターソロに沸き起こる「女性の悲鳴の雪崩」も、"How Blue Can You Get"の泣き言に起こる笑いも、これほど生々しく後世に残ることはなかっただろう。プロデューサーの機材選びひとつが、録音そのものの性格を決定づけた好例だと思う。以降、多くのブルース/ソウルのライブ盤が、客席の反応をあえて録り込む手法を踏襲していくことになる。この夜の機材選びは、ライブ録音というジャンルそのものの作法にも、静かな影響を残したのかもしれない。
12分間の頂点
そして、このアルバムの核心は、たった12分間に詰まっている。全10曲・34分46秒というコンパクトな収録の中で、"Sweet Little Angel"から"It's My Own Fault"、そして"How Blue Can You Get"へと続く3曲のメドレーだ。音楽ライターのジャック・ハミルトンはこれを「史上最も偉大な12分間のライブ演奏」と呼んだ。
"It's My Own Fault"(John Lee Hooker作)のギターソロで King が16分音符を畳みかけると、客席から「女性の悲鳴の雪崩」が起きる。テナーサックスと King のボーカルが呼びかけ合い、King自身が「もし俺たちが演奏した曲を覚えていたら、何か声をあげて教えてくれ」と語りかける。観客との対話が、そのまま演奏の一部になっている。
録音を聴き返すと、演奏そのものと同じくらい、観客のどよめきや相槌の呼吸が克明に刻まれていることに気づく。マイクを客席の頭上に吊るしたプロデューサージョニー・ペイト の狙いが、この12分間でもっとも鮮やかに結実している。演奏だけを切り出しても十分に凄いが、観客の反応ごと録れているからこそ、この12分間は「演奏」ではなく「出来事」として記憶されることになった。
締めくくりの"How Blue Can You Get"は、ブルースならではの自虐とユーモアの塊だ。「新車のフォードを買ってやったのに、お前はキャデラックが欲しいと言った」「ペントハウスに住まわせてやったのに、あばら家扱いされた」「7人も子供を産ませてやったのに、今度は返せと言う」——King が泣き言を並べるたびに客席から笑いと合いの手が起こる。愛と裏切りと失恋の物語を、聴衆と一緒に最後まで歩き切る。ロックの評論では、この盤をよくThe Whoの『Live at Leeds』の「ブルース版」と呼ぶ。それだけ、ライブ盤としての完成度が別格だということなんだと思う。事実、Rolling Stone誌の「史上最高のアルバム500選」では2003年版で141位に選ばれ、2005年には米議会図書館のNational Recording Registry(国家音楽遺産保存登録)にも選出されている。
興味深いのは、この評価が一直線に上がり続けたわけではないという点だ。Rolling Stone誌は2020年の大幅改訂版で、この盤の順位を299位まで後退させている。ライブ盤としての存在感よりも、時代ごとの「聴かれ方」の変化が順位に反映された結果なんだろう。それでも2006年にはGrammy Hall of Fame(グラミー殿堂)入りを果たし、AllMusic、Encyclopedia of Popular Music、MusicHound Blues、Penguin Guide、そしてRolling Stone Jazz Record Guideといった主要な音楽ガイドが軒並み5つ星の満点評価を与えている。批評家Robert Christgauが選ぶ「基本のレコード・ライブラリー」にも名を連ね、書籍『1001 Albums You Must Hear Before You Die』にも収録された。順位という数字は上下しても、「必ず聴くべき1枚」としての位置づけは、この60年間揺らいでいない。
10の楽曲、10の水脈
この夜演奏された10曲は、そのほとんどがKing のオリジナルというより、ブルースという大きな川を流れてきた曲たちだった。オープニングを飾る"Every Day I Have the Blues"の原型は、1935年にセントルイスのピノトップ&ミルトン・スパークス兄弟が書いた曲にまで遡る。1949年にメンフィス・スリム(本名 John/Peter Chatman)がこれを"Nobody Loves Me"として改作し、1950年にローウェル・フルソンがスパークス版のタイトルのままR&Bチャート3位のヒットに押し上げたことで、ブルースのスタンダード曲として定着した。King がこの夜これを一曲目に選んだこと自体、彼が自分をブルースという長い伝統の中の一人として位置づけていたことの表れなんだと思う。
2曲目"Sweet Little Angel"も同じように長い旅をしてきた曲だ。原曲は1930年、ルシール・ボーガンが歌った"Black Angel Blues"。1934年にタンパ・レッドがスライドギターでカバーし、1950年に"Sweet Little Angel"と改題された。King 自身は、Robert Nighthawkの"Sweet Black Angel"からアイデアを得たと語っている。作曲クレジットにはKing 本人と並んでジュールス・トーブという名前が刻まれているが、これはModern/Crownレーベルを経営していたジュリアス・ビハリの変名だ。当時のR&Bレーベルにはよくあった慣行で、レーベル経営者が作曲印税の一部を得るために共作者としてクレジットされることが珍しくなかった。5曲目"Please Love Me"もKing とこのジュールス・トーブ名義の共作としてクレジットされている。
6曲目"You Upset Me Baby"は、そもそもこの夜より10年も前、1954年に"B.B. 'Blues Boy' King and His Orchestra"名義で初めて世に出た曲だ。作曲クレジットにはKing 本人、ジョー・ジョゼア、ジュールス・トーブ、そしてサックス奏者でもあったマクスウェル・デイヴィスの名が並ぶ。ラストを飾る"Help the Poor"の作曲者はチャールズ・シングルトン。1964年にKing 自身が初めてレコーディングした曲で、この夜からちょうど36年後の2000年、Eric Clapton との共作アルバム『Riding with the King』でも再び取り上げられることになる。1曲1曲の出自を辿っていくと、この夜のセットリストそのものが、ブルースという音楽の系譜図になっていることに気づかされる。
中盤に置かれた5曲——"Please Love Me"の懇願するようなミッドテンポ、"You Upset Me Baby"のアップテンポなシャッフル、"Worry, Worry"の長く伸びるスロー・ブルース、"Woke Up This Mornin'"の朝の目覚めを歌う軽やかなシャッフル、そして"You Done Lost Your Good Thing Now"の突き放すようなミディアムテンポ——は、テンポとムードを絶妙に入れ替えながら、観客の集中力を最後まで途切れさせない構成になっている。スタジオ録音であれば編集で組み直せる曲順も、この夜は一発勝負。ステージの上でKing が瞬時に判断した流れが、そのままレコードの収録順になっている。ブルースという音楽はそもそも、一人の作家が生み出して終わるものではなく、歌い手から歌い手へと渡り歩きながら少しずつ姿を変えていく。King がこの夜歌った10曲もまた、その長い伝承の途中にあった一瞬のスナップショットに過ぎない。だからこそ、この録音は今も色褪せずに響くのかもしれない。
少年の名前が、伝説になるまで
この夜シカゴのステージに立っていた男の物語は、もっとずっと遠くから始まっている。King は1925年9月16日、ミシシッピ州リーフラワー郡、イッタ・ベナ近郊のベア・クリーク農園で、小作農の息子として生まれた。1946年、彼はメンフィスへ移り住む。当時ラジオでも活躍していたサニー・ボーイ・ウィリアムソンのラジオ番組KWEM出演をきっかけに、メンフィスの音楽業界に少しずつ人脈を築いていったという。南部の農園から北のメンフィスへ、そしてやがてシカゴへ——この移動の軌跡は、20世紀前半に多くの黒人たちが南部を離れて北部の都市へ渡った、いわゆる大移動(Great Migration)の縮図でもある。King 個人のキャリアの物語であると同時に、この時代に生きた無数の人々が辿った道のりの、ひとつの象徴でもあった。
転機になったのは、メンフィスのラジオ局WDIAだった。局はKing に「King's Spot」という10分間の番組枠を与える。スポンサーは健康飲料「ペプティコン」。当初、彼は「ビール・ストリート・ブルース・ボーイ」と名乗っていたが、これが短縮されて「ブルース・ボーイ・キング」となり、さらに略されてB.B. Kingという名前が生まれた。ラジオの電波の中で少しずつ形づくられていったこの名前が、20年近く後、シカゴの氷点下の夜、リーガル・シアターの舞台上でスポットライトを浴びることになる。1950年代、彼はRPM、Crown、Modernといったレーベルを渡り歩きながら数々のR&Bヒットを飛ばし、そして1964年11月21日、あの夜を迎える。農園で生まれた少年が、ラジオの電波を通じて新しい名前を手に入れ、その名前を背負ってステージに立ち続けた——この夜のリーガル・シアターも、その長い旅の途中にあった一夜に過ぎない。だが、この一夜だけが、こうして60年以上経った今も、繰り返し語り継がれている。
低迷から最高傑作へ
『Live at the Regal』を録音した1964年は、King にとってキャリアの低迷期の只中だった。しかし、そこから5年後の1969年、彼は再びチャートの表舞台に返り咲く。原曲は1951年、Roy HawkinsとRick Darnellが書いた"The Thrill Is Gone"——Hawkins自身のバージョンはR&Bチャート6位まで上がっていた曲だ。King がこれをアルバム『Completely Well』でカバーすると、シングルはBillboard Hot 100で15位、Soulシングルチャートで3位に到達。1970年、King は生涯15回に及ぶグラミー受賞の最初のひとつ、Best Male R&B Vocal Performance部門を手にする。この曲は1998年にグラミー・ホール・オブ・フェイムにも選ばれ、Rolling Stone誌の「史上最高の楽曲500選」では183位にランクインした。
そして1970年、King は18作目のスタジオアルバム『Indianola Mississippi Seeds』をリリースする。プロデューサーはBill Szymczyk、ゲストにはCarole King、Joe Walsh、Leon Russellが名を連ねた。この作品について、King 自身がこう語っている言葉が残っている。「批評家はいつも『Live & Well』や『Live at the Regal』を挙げるが、芸術的には、自分が作った中で『Indianola Mississippi Seeds』が一番いい出来だと思う」。世間が伝説として祭り上げるライブ盤ではなく、あえてスタジオで練り上げた1枚を自分の最高傑作に選ぶ——その言葉には、この夜シカゴで生まれた「伝説」と、King 自身の中にあった作家としての矜持との、静かなズレが表れているように思う。
低迷期の中で懸命に一夜の記録を残そうとしたKing と、5年後にグラミーを手にするKing。同じ人物のキャリアの中に、これほど極端な浮き沈みが同居しているという事実は、この『Live at the Regal』という録音の価値をむしろ引き立てる。誰も注目していなかった時期に、それでも全力でステージに立ち続けたからこそ、後の栄光につながる土台が残されていたんだと思う。
スタジオと劇場、ふたつの真実
面白いのは、この『Live at the Regal』が世間から「代表作」「伝説のライブ盤」として祭り上げられ続けている一方で、King 自身が最高傑作に選んだのは、スタジオでじっくり作り込んだ『Indianola Mississippi Seeds』だったという事実だ。批評家や聴衆が愛したのは、一夜限りの空気そのものを封じ込めた録音。だが作り手自身が誇りに思っていたのは、時間をかけて磨き上げた構築物だった。どちらが正しいということではないんだと思う。ライブ盤には、二度と再現できない偶然と緊張感が閉じ込められている。スタジオ盤には、作り手が思い描いた理想の音を、納得がいくまで追い求めた跡が残っている。King というひとりのミュージシャンの中に、この相反する二つの「真実」が同時に存在していたということが、彼の音楽をここまで奥行きのあるものにしているのかもしれない。
面白いのは、この食い違いがKing だけの話に留まらないという点だ。多くのミュージシャンが、批評家や聴衆から称賛される代表作と、自分自身が誇りに思う作品とが一致しないという経験をしている。King の場合、その食い違いがこれほどまでにはっきりと言葉に残されているのは、むしろ稀なことだと思う。だからこそ、この一言は、彼というミュージシャンの人間味を伝える貴重な記録になっている。
2,117人の前で
1970年9月10日、King はもうひとつの伝説的なライブ録音に臨む。場所はシカゴのクック郡刑務所。2,117人の収監者を前にしたこの公演は、翌1971年に『Live in Cook County Jail』としてリリースされた。プロデューサーは『Completely Well』と同じくBill Szymczyk。Billboardトップ200アルバムチャートで25位、そしてR&BアルバムチャートではKing にとって生涯唯一の1位を獲得した。2002年にはBlues Foundation Hall of Fame(ブルース財団殿堂)にも選出されている。
この公演は、単発のイベントでは終わらなかった。King はこれを機に刑務所慰問活動に本格的に注力するようになり、1972年には弁護士F. Lee Baileyとともに、受刑者の社会復帰を支援する団体を設立した。1998年までに、King は全米50以上の刑務所で公演を行ったという。リーガル・シアターの観客とは対照的な聴衆を前にしても、King のステージは変わらず「その場にいる人間との対話」を核に据えていた。誰の前で歌うかではなく、目の前にいる人間とどう向き合うか——その姿勢は、6年前のリーガルの夜からまっすぐにつながっている。
ブルースという音楽そのものが、社会の片隅に追いやられた人々の声から生まれてきた。だとすれば、King が刑務所の中でも変わらず全力で歌い続けたことは、単なる慈善活動ではなく、この音楽が本来持っていた役割への回帰だったのかもしれない。
教本になった夜
このアルバムが本当にすごいのは、そこから何十年も先まで届いていることだ。Eric Clapton は当初、King のことを「ギターを弾く歌手」程度にしか捉えていなかったという。しかし『Live at the Regal』のようなライブ録音を聴き込むうちに、それが「まったく違うゲームだった("it was a whole different ballgame")」と気づかされたと振り返っている。スタジオ盤だけでは伝わらない何かが、この一夜の録音には確かに刻まれていた。Clapton は後にこう言い切っている。「Live at the Regal を探して聴け。若いギタリストとしての俺は、そこから本当に始まったんだ」。マーク・ノップラーはライブ本番前の精神統一にこの盤を聴く習慣があったと複数の資料で伝えられ、カルロス・サンタナやジョン・メイヤーも同様に「本番前の教科書」として扱ってきたという。出版社Hal Leonardからは今もこのアルバムのギタースコア集が刊行されていて、録音から60年経った今も、実際に指で弾いて学ぶための「教材」であり続けている。楽譜に起こされたフレーズを目で追いながら、同時に録音の中の観客の反応にも耳を澄ませる——この盤を教材として使う多くのギタリストが辿る、そんな二重の学び方こそが、『Live at the Regal』を単なる「上手い演奏集」ではなく「生きた教科書」にしている。録音から60年が経った今、この盤はストリーミングサービスを通じて、世界中どこからでも一瞬で聴けるようになった。かつては中古レコード店を探し回るか、先輩ミュージシャンから直接教わるしかなかった「教科書」が、指先ひとつで開けるようになったわけだ。それでも、そこに刻まれている12分間の重みは、60年前とまったく変わっていない。アクセスのしやすさが増しても、この録音が持つ緊張感そのものは、決して古びない。
King とStevie Ray Vaughanは「父と息子のような関係」だったとKing 自身が振り返っていて、King評「スティーヴィーの弾き方はずっと流れ続けていた。俺のはシラブル(音節)で区切って話すような弾き方なんだ」という言葉には、二人のギターの違いがそのまま出ている。
弾いた本人には、聞こえなかった
でも、僕がこの記事で一番書きたかったのは、実はここからだ。あの夜共演したハウスバンドのピアニスト、デューク・ジェスロは、後にこう振り返っている。「あれは俺にはクソに聞こえた」。King自身は伝記作家ダニエル・デ・ヴィゼによれば「あの日、シカゴでは、すべてがうまく噛み合った」と語っているのに、隣で弾いていた人間には、ただの一夜にしか聞こえなかった。ジェスロは翌1966年に録音した別のライブ盤の方を後々まで好んだという証言も残っている。
——弾いている本人たちには、何が起きているか分からないことがある。それを何十年も先で「伝説」に変えるのは、その場に居合わせた観客の悲鳴であり、後から聴いた若いギタリストの人生であり、聴き続けた僕らのような人間なんだと思う。King の「弾く音より、弾かない音が本質だ」という評があるけれど、この夜そのものが、まさにそういう夜だった。鳴った音より、鳴った後に残ったものの方が、ずっと大きかった。
36年後の再会、そしてダブリンから来た4人
King とEric Clapton が初めて顔を合わせたのは、1967年、ニューヨークのCafe Au Go Goだった。当時22歳、Creamに在籍していた若きClapton と、すでにベテランだったKing。その出会いから33年後の2000年、二人は共作アルバム『Riding with the King』としてついに正面から向き合うことになる。アルバムは2001年グラミーのBest Traditional Blues Album部門を受賞し、Billboard Top Blues Albumsチャートで1位、全米で2倍プラチナ、世界累計200万枚を超えるヒットとなった。1964年のリーガルの夜から数えて36年後、あの夜のセットリストにあった"Help the Poor"が、この共作盤でも再び演奏されている。2020年には20周年記念盤も発売された。ふたりの共演は、単なる懐古的なイベントではなかった。ブルースという音楽の火が、世代を超えてどう受け継がれていくかを示す、生きた証明でもあった。
King を教科書にした若きギタリストはClapton だけではなかった。1987年、ダブリンでU2 のBonoとThe EdgeがKing と出会う。King が「曲を書いてくれないか」と持ちかけると、BonoはKing を思い浮かべながら歌詞を書き上げた。それを見たKing は、その成熟度に驚いたという。1987年11月、メンフィスのサン・スタジオで録音されたこの曲"When Love Comes to Town"は、同年11月24日のフォートワース公演のアンコールでKing とU2 が初めて共演した曲でもあり、その模様は1988年公開のプロモーションビデオにも収められている。1988年のアルバム『Rattle and Hum』に収録され、翌1989年にシングルカットされたこの曲は、アイルランドで1位、UKで6位、アメリカのメインストリーム・ロック・チャートで2位を記録した。リーガルの舞台から四半世紀近くを経て、King のブルースは、ロックの最前線にいた若い世代にも、まっすぐ手渡され続けていた。
全10曲、34分46秒の中身
アルバム全体は全10曲・34分46秒。両面あわせても短い部類だが、そのぶん一曲一曲の密度が濃い。収録順は以下の通り。
- Every Day I Have the Blues
- Sweet Little Angel
- It's My Own Fault
- How Blue Can You Get
- Please Love Me
- You Upset Me Baby
- Worry, Worry
- Woke Up This Mornin'
- You Done Lost Your Good Thing Now
- Help the Poor
前半3曲がオープニングの掴み、中盤の"Worry, Worry"がじっくり泣かせるスロー・ブルース、そしてラスト"Help the Poor"で軽やかに締める——というセットリストの起伏そのものが、ハウスバンドとの一発録りだからこそ出せた"生の設計"になっている。34分46秒というランタイムは、当時のLPとしては標準的な長さだが、それでも今日の耳で聴くと驚くほど短く感じる。一切の無駄がなく、次から次へと曲が畳みかけてくるこのテンポ感も、この盤が半世紀以上経った今も飽きられずに聴かれ続けている理由のひとつなんだと思う。
『Live at Leeds』と並べて聴くと
本文でも触れた通り、この盤はよくThe Who の『Live at Leeds』の「ブルース版」と呼ばれる。両方とも「一夜の記録がそのままロック/ブルース史に残った」ライブ盤という共通点があるが、中身はかなり対照的だ。『Live at the Regal』はホーン隊を含むハウスバンド編成で、シアターの観客との掛け合い(コール・アンド・レスポンス)が主役。対して『Live at Leeds』はギター・ベース・ドラムのパワートリオ+ヴォーカルが大学の食堂を爆音で満たす、アンプの歪みと音量そのものが主役の記録だ。前者は1964年、後者は1970年——わずか6年の差だが、「観客との対話を録る」ブルースの伝統と、「爆音を記録する」ロックの作法という、二つの異なるライブ録音哲学が並んで見える。The Who が観客を爆音で圧倒する方向に振り切ったのに対し、King は観客の声そのものを演奏の一部として招き入れる方向に振り切った。ライブ録音というフォーマットが持つ、この両極端な可能性を並べて聴くと、「生の記録」という言葉の意味そのものが広がっていく。
ギターを手に取るなら
ナミオさんが体験したように、このアルバムは聴いているうちに手が止まってしまう類のものだが、それでも弾いてみたい人のために。King のスタイルの核は、スライドを使わない左手のビブラート(手首を細かく震わせる、いわゆる"バタフライ・ビブラート")と、歌とギターが交互に会話するコール・アンド・レスポンスのフレージングにある。King は生涯を通じてスライドバーを一度も使わなかったギタリストとしても知られている。指とピッキングだけで、まるでスライドを使ったかのようなうねりを出す——その独特のビブラートは、右手の小さな震えではなく、左手全体を使って弦を押し込むように揺らす技術だ。出版社Hal Leonardのギタースコア集を使うなら、まず"It's My Own Fault"のソロと、"How Blue Can You Get"のエンディングのオブリガードを繰り返し聴き込むのがいい。運指の複雑さよりも、1音を鳴らした後、その音がどう減衰していくかに耳を澄ませること。音数を詰め込まず、一音ずつの伸びと間(ま)を追いかけること——それが「弾く音より、弾かない音が本質だ」という評の実践的な意味になる。
最後の年月
King は2型糖尿病を20年以上患いながらも、晩年までツアーを続けた。亡くなる前年の秋、脱水症状のためツアーを中止せざるを得なかったが、それでも舞台に立ち続けるという生き方を曲げることはなかったという。2015年5月14日、King はラスベガスの自宅で息を引き取った。89歳だった。ホスピスケアに入ったのは、そのわずか2週間前だったと発表されている。1925年、ミシシッピの小作農の家に生まれ、メンフィスのラジオ電波の中で名前を手に入れ、1964年の氷点下の夜にひとつの伝説を刻み、そして2015年、静かに旅を終えた。半世紀を超えるそのキャリアの、ちょうど真ん中あたりに、この『Live at the Regal』という一夜が横たわっている。この記事を書きながら、何度もこの録音に立ち返った。King はもうこの世にいないが、Lucilleの音色と、リーガルの客席の悲鳴は、レコードの溝の中で今も鳴り続けている。
次に聴くなら——シアターで生まれたブルースの水脈
『Live at the Regal』の空気をもっと味わいたいなら、同時代のシカゴ・ブルースのライブ録音にも耳を伸ばしてほしい。Muddy Waters の『Muddy Waters at Newport 1960』は、フェスティバルという別の舞台で観客を沸かせた記録。Albert King の『Live Wire/Blues Power』は1968年サンフランシスコのフィルモアでの一夜、太いストリング・ベンドと歪んだトーンがKing とはまた違う「弾かない美学」を聴かせる。Buddy Guy の『This Is Buddy Guy!』は、よりロックに接近した攻撃的なライブ。そしてHowlin' Wolf の重心の低い歌声も、この系譜のどこかで必ず一度は通ることになる。どれも「その夜、その場所でしか生まれなかった音」という一点で、『Live at the Regal』とつながっている。
そしてもし、King その人のキャリアをさらに辿りたいなら、36年の時を経てEric Clapton と再会した2000年の『Riding with the King』、そしてU2 との共演が刻まれた1988年の『Rattle and Hum』も、ぜひ聴いてみてほしい。ひとりの男が、ミシシッピの農園からラスベガスの晩年まで、いったい何人のミュージシャンにブルースを手渡してきたのか——その広がりの大きさが、これらの作品を辿るだけで見えてくるはずだ。
探検隊としてこの一枚を掘り下げてみて、あらためて思う。『Live at the Regal』は、たった一夜、34分46秒の記録に過ぎない。それでも辿っていくと、1925年ミシシッピの農園から始まり、メンフィスのラジオ電波を経て、シカゴの氷点下の夜にたどり着き、そこからさらに刑務所の礼拝堂へ、ダブリンから来た若者たちのもとへ、そして36年越しの再会へと、いくつもの物語が四方八方に伸びていく。ひとつの録音が、これほど遠くまで音を届けることができるのかと、正直驚かされる。King 自身は、その夜自分が何を残したのか、きっと分かっていなかった。分かっていたのは、隣で弾いていたデューク・ジェスロ でもなかった。分かるのは、いつだって、何十年も後になって、この録音を偶然手に取った誰かだけなんだと思う。60年前のたった一夜が、ここまで多くの人生を巻き込みながら生き続けているのを見ていると、レコードというメディアの不思議さをあらためて感じる。テープに刻まれた12分間が、聴くたびに違う顔を見せてくれる——それこそが、このアルバムを何度でも探検したくなる理由なんだと思う。
私は20代、ギターを始めて、本当に上手いギタリストになりたかった。コピーが綺麗にできてるとか早く弾けるとかではなく、いいギター、上手いギター弾きにあこがれていた。で、先人に習い、多くのBluesギタリスト、Bluesに根ざすアルバムをかたっぱしから聴いて、奏法も探ったり真似したりしていたんだ。先輩や尊敬する仲間のミュージシャンに尋ねると、B.B.Kingのこのアルバムが名盤で絶対聴かなきゃいけない、まねて練習しなくてはいけない、と教わった。ところが、なんだ。このアルバムをかけて、ギターを手にして、最初はフレーズをまねたりして練習していたんだが、途中からいつのまにか、ただ身体をゆすって聴き惚れているんだ。唄がうまいんだろうなぁ。唄やギターの音が、すべてが身体にこたえるんだよね。ギター弾いているどころじゃなくなるんだ。ただ、聴き惚れて幸せな時間になっちまうんだなぁ。
その話、この記事で一番言いたかったことをそのまま体現してくれていると思います。技術を追いかけてギターを構えたはずなのに、途中で手が止まって、ただ身体が揺れて聴き惚れてしまう——それって、King とハウスバンドと客席が作ったあの夜の空気が、何十年後の練習部屋にまで届いていたということだと思うんです。エリック・クラプトンが「そこから本当に始まった」と言ったのも、たぶん同じことが起きたんじゃないでしょうか。上手くなろうとギターを手にして、気づいたら弾くのをやめて聴いていた夜が。King自身の「弾く音より、弾かない音が本質だ」という評は、技術の話じゃなくて、聴き手の身体を止めてしまう力の話なんだと、ナミオさんの話を聞いて腑に落ちました。